四捨六入
日常という恐怖と希望
昨夜,数十メートル先のところで,1人の男性が亡くなった。
その方と特に面識は無いが,目の前で見る火事はそれなりに驚きがあった。
非日常だった。
その時には知らなかったが,その炎の中に,1人の男性が居たことを知ったのだった。

今日,俺は日常の生活を送った。
いつもとなんら変ることが無い。
会社に行き,仕事をし,食事をする。風呂に入る。トイレにも行く。

これは,当然のことながら,それは昨夜のこと(正直,俺にとっては
それほどには重大なことではないが)に限らないし,俺に限らないだろう。
それが,家族や親戚の誰かが亡くなろうとも,
受験に失敗しようとも,彼女に振られようとも,
仕事で大きな失敗をしようとも,信じた友に裏切られようとも,
自分の無力さに涙しようとも。

その非日常に耐え切れずに,命を絶つものもいるだろう。
だが,耐え切ること,日常を過ごすこと,それは力となり,希望となる。

日常を過ごすということは,全てを過去にする。
どんなに記憶にとどめていようとも,薄れていく。過去になる。
薄まった記憶を頭の中で明確にしても少しずつ劣化(美化かもしれないが)する。
それを恐怖するものもいるだろう。
日常という恐怖に恐れ,日常から逃避するものもいるだろう。
しかし本当はそれは悲しむことではなく,明日への力であり希望である。

日常を過ごすということはそれだけで明日への力となり希望となる。

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