分裂勘違い君劇場:不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い
そうかも。
俺はゆうても酷い不運にも理不尽にも襲われてないと思うので,”その他大勢”なんだが,
それでも多少,成長してきたポイントってのがあるが,それってやっぱりいろいろな
不運とかを乗り越えた時かなと思う。
これ普通にそうよね。問題が起こって,まずは問題を解決するために全力を注ぐ。
まずは自分達に責任が無いとかばっかり叫んでいる人はまず相手にされない。
俺は先に書いたようにマッチョではないけど,仕事に限らず人生どんな事象にも,
どんな不運でも基本的には自分の責任と考えてるな。
というか他人に責任があったとしても,何の解決にもならないから。
極端な話,何も悪いことしてないのに車に追突されて,大怪我をおったとして,責任が
あるのはその車の運転者であることは間違いなくても,結局大怪我をおうのは自分だから。
誰が悪かろうとなんだろうと,大怪我なんておいたくないので,危なそうな車見たら事前に
避けとくとか,車の通りの少ない道を選んで歩くとか,何かしら対策の取りようはある。
(当然,それでもぶつけられる場合だってあるわけで,そんときはそんときで,次には
自分の怪我を最小限に抑え,最短で治るような行動パターンを考えるのみ。。)
まぁそんな基本的な考え方ってのが根底にあるので,
どんな不運や人からの攻撃があったとしても,外から見たら比較的淡々と受け止め,
盲目的にならずに客観的な見方がある程度できるんじゃないかなぁと思ってる。
普段から結構突拍子もない不運が襲ってきた場合のシミュレーションを頭の中で描いて
みたりというのは,たまにだけどやってる。(そういえば比較的最近は減ってきたような・・・)
酷い不運と理不尽に襲われた人間だけが、マッチョorウィンプになる。
マッチョとウィンプは、かなりクリアに区別できる。
何年もの間、不運と理不尽を食らいつづけたマッチョの社会正義に対するスタンスは、概ね以下のようなものになってくる。
優秀な人材に変身するキッカケに出会うか、未熟なまま老いていくか
そうかも。
俺はゆうても酷い不運にも理不尽にも襲われてないと思うので,”その他大勢”なんだが,
それでも多少,成長してきたポイントってのがあるが,それってやっぱりいろいろな
不運とかを乗り越えた時かなと思う。
マッチョが社会正義を叫ぶのは、それが戦略的に意味がある場合だけだ。
マッチョは自分に責任のない災厄が降りかかってきたときも、あわてず騒がず、淡々と自力で対処する。
それが道徳的に自分の責任なのか、他人の責任なのかを考えるのは後まわしにして、とにかく事態を収拾する。
こうして、問題は解決され、プロジェクトは前進する。
これ普通にそうよね。問題が起こって,まずは問題を解決するために全力を注ぐ。
まずは自分達に責任が無いとかばっかり叫んでいる人はまず相手にされない。
一方、マッチョはほとんど無意識のうちに不運と理不尽のリスクを警戒する。
なぜなら、不運と理不尽のリスクマネージメントも含めて、自分の責任だと考えるからだ。
俺は先に書いたようにマッチョではないけど,仕事に限らず人生どんな事象にも,
どんな不運でも基本的には自分の責任と考えてるな。
というか他人に責任があったとしても,何の解決にもならないから。
極端な話,何も悪いことしてないのに車に追突されて,大怪我をおったとして,責任が
あるのはその車の運転者であることは間違いなくても,結局大怪我をおうのは自分だから。
誰が悪かろうとなんだろうと,大怪我なんておいたくないので,危なそうな車見たら事前に
避けとくとか,車の通りの少ない道を選んで歩くとか,何かしら対策の取りようはある。
(当然,それでもぶつけられる場合だってあるわけで,そんときはそんときで,次には
自分の怪我を最小限に抑え,最短で治るような行動パターンを考えるのみ。。)
まぁそんな基本的な考え方ってのが根底にあるので,
どんな不運や人からの攻撃があったとしても,外から見たら比較的淡々と受け止め,
盲目的にならずに客観的な見方がある程度できるんじゃないかなぁと思ってる。
普段から結構突拍子もない不運が襲ってきた場合のシミュレーションを頭の中で描いて
みたりというのは,たまにだけどやってる。(そういえば比較的最近は減ってきたような・・・)
このブログに検索サイトからたどり着く人で最も多いキーワードは
「四捨六入」
恐らくは「四捨六入」の計算方法なんかを探している方々なんでしょう。
残念ながら当ブログは四捨六入の計算方法は書いてないのです。
なので,(まったくその辺知らないので,適当にぐぐったりして)書いておこうかと。
まず,wikipediaによると四捨六入そのものの項は無いが,「端数処理」という項目に記載がある。
これによると,まず,
・数字を「丸め」るという方法の中の1つに四捨五入があり,「JIS Z 8401 規則B」というところで規定されている。
・他の(特殊な)丸め方のいくつかの方法の1つとして四捨六入はある。
のようです。JIS規格が絡んできそうですね。
さらにぐぐりますと,
こっきぃの”城”:四捨五入マジック(1)
のコメント欄の情報によると,「JIS式丸め方」というものに,
やはりJIS規格が関連するようです。
%の四捨五入について
にも同様のことが書いてあります。
また,どうやら,
悪態のプログラマ:五捨五入
「五捨五入」と同義のようです。
さらに,どうやら,プログラムの世界ではやはりJIS規格にのっとって使われているようだ。
[.NET]四捨六入
VBのPヂカラ更新履歴
確かにプログラミングするとき(というか厳密な数字の計算が必要なとき)はこの辺りが
ちゃんとできてないとダメそうですね。。
中部大学さんの授業教材でしょうか?それっぽいことが書いてます。
いくつか見てみましたが(って大して見てないですが),
・四捨六入自体は,4以下切り捨て,6以上切り上げ
・四捨六入する際は,5の扱いを,
- 5は5として切り上げも切り捨てもしない
- 何らかの条件で切り上げ/切捨てする
条件=5ぴったりなら切り上げ,5より上位の桁が奇数なら切り上げ,偶数なら切捨て
(四捨六入した数字が偶数になるようにする)
と併用する。
みたいですね。多分。。
「四捨六入」
恐らくは「四捨六入」の計算方法なんかを探している方々なんでしょう。
残念ながら当ブログは四捨六入の計算方法は書いてないのです。
なので,(まったくその辺知らないので,適当にぐぐったりして)書いておこうかと。
まず,wikipediaによると四捨六入そのものの項は無いが,「端数処理」という項目に記載がある。
これによると,まず,
・数字を「丸め」るという方法の中の1つに四捨五入があり,「JIS Z 8401 規則B」というところで規定されている。
・他の(特殊な)丸め方のいくつかの方法の1つとして四捨六入はある。
のようです。JIS規格が絡んできそうですね。
さらにぐぐりますと,
こっきぃの”城”:四捨五入マジック(1)
のコメント欄の情報によると,「JIS式丸め方」というものに,
・求める桁の下(丸める桁)が、「きっちり5」以外のとき
→「四捨六入」
・求める桁の下(丸める桁)が、「きっちり5」のとき
→求める桁が奇数なら「5を切り上げる」
→求める桁が偶数なら「5を切り下げる」
やはりJIS規格が関連するようです。
%の四捨五入について
にも同様のことが書いてあります。
また,どうやら,
悪態のプログラマ:五捨五入
「五捨五入」と同義のようです。
さらに,どうやら,プログラムの世界ではやはりJIS規格にのっとって使われているようだ。
[.NET]四捨六入
VBのPヂカラ更新履歴
確かにプログラミングするとき(というか厳密な数字の計算が必要なとき)はこの辺りが
ちゃんとできてないとダメそうですね。。
中部大学さんの授業教材でしょうか?それっぽいことが書いてます。
いくつか見てみましたが(って大して見てないですが),
・四捨六入自体は,4以下切り捨て,6以上切り上げ
・四捨六入する際は,5の扱いを,
- 5は5として切り上げも切り捨てもしない
- 何らかの条件で切り上げ/切捨てする
条件=5ぴったりなら切り上げ,5より上位の桁が奇数なら切り上げ,偶数なら切捨て
(四捨六入した数字が偶数になるようにする)
と併用する。
みたいですね。多分。。
昨夜,数十メートル先のところで,1人の男性が亡くなった。
その方と特に面識は無いが,目の前で見る火事はそれなりに驚きがあった。
非日常だった。
その時には知らなかったが,その炎の中に,1人の男性が居たことを知ったのだった。
今日,俺は日常の生活を送った。
いつもとなんら変ることが無い。
会社に行き,仕事をし,食事をする。風呂に入る。トイレにも行く。
これは,当然のことながら,それは昨夜のこと(正直,俺にとっては
それほどには重大なことではないが)に限らないし,俺に限らないだろう。
それが,家族や親戚の誰かが亡くなろうとも,
受験に失敗しようとも,彼女に振られようとも,
仕事で大きな失敗をしようとも,信じた友に裏切られようとも,
自分の無力さに涙しようとも。
その非日常に耐え切れずに,命を絶つものもいるだろう。
だが,耐え切ること,日常を過ごすこと,それは力となり,希望となる。
日常を過ごすということは,全てを過去にする。
どんなに記憶にとどめていようとも,薄れていく。過去になる。
薄まった記憶を頭の中で明確にしても少しずつ劣化(美化かもしれないが)する。
それを恐怖するものもいるだろう。
日常という恐怖に恐れ,日常から逃避するものもいるだろう。
しかし本当はそれは悲しむことではなく,明日への力であり希望である。
日常を過ごすということはそれだけで明日への力となり希望となる。
その方と特に面識は無いが,目の前で見る火事はそれなりに驚きがあった。
非日常だった。
その時には知らなかったが,その炎の中に,1人の男性が居たことを知ったのだった。
今日,俺は日常の生活を送った。
いつもとなんら変ることが無い。
会社に行き,仕事をし,食事をする。風呂に入る。トイレにも行く。
これは,当然のことながら,それは昨夜のこと(正直,俺にとっては
それほどには重大なことではないが)に限らないし,俺に限らないだろう。
それが,家族や親戚の誰かが亡くなろうとも,
受験に失敗しようとも,彼女に振られようとも,
仕事で大きな失敗をしようとも,信じた友に裏切られようとも,
自分の無力さに涙しようとも。
その非日常に耐え切れずに,命を絶つものもいるだろう。
だが,耐え切ること,日常を過ごすこと,それは力となり,希望となる。
日常を過ごすということは,全てを過去にする。
どんなに記憶にとどめていようとも,薄れていく。過去になる。
薄まった記憶を頭の中で明確にしても少しずつ劣化(美化かもしれないが)する。
それを恐怖するものもいるだろう。
日常という恐怖に恐れ,日常から逃避するものもいるだろう。
しかし本当はそれは悲しむことではなく,明日への力であり希望である。
日常を過ごすということはそれだけで明日への力となり希望となる。


